さらに坊主の頃
バレンタインディの存在も知らなかった。
女子とは口もきかなかった。
ひたすらロックだが・・・、悶々とした思春期でもあった。

大阪では日本万国博覧会が開かれた。
よど号ハイジャック事件が起きた。
三島由紀夫が自決した。

慌しい世間だったが、あまり関心もなく、私は、空中分解してしまったビートルズの曲を中心に聴いていた。

その他にも
シカゴ、BS&T、マッシュマッカーン、エルトン・ジョン、ピンク・フロイド、スリードッグ・ナイト、ミッシェル・ポルナレフ、ショッキング・ブルーなどなど、いろいろ聞いていた。
レコードを買うお金がなかったので、友達とよく貸し借りをした。兄貴の凝っていたサイモン&ガーファンクルもよく聴いた。

アルバート・ハモンドの「カリフォルニアの青い空」のイントロと堺正章の「さらば恋人」がイントロがそっくりで、欧陽琲琲の「恋の追跡(ラブ・チェイス)」はこれまたチェイスの「黒い炎」にそっくりだった記憶がある(たしか)。
今ではアレンジどころか曲そのものが洋楽のパクリでも驚かなくなったが、当時の坊主頭の中学生には不思議な世界であった。
今じゃサンプリングでオリジナルそのものをパッチワークしても、「リスペクト」だけ捧げたらOKな時代だから不思議じゃなくなった。

当時のロックスターはやたらに夭逝した。
飛行機事故、自動車事故、ドラッグ。ジミ・ヘンもジャニスも同じような頃に亡くなったが、当時の坊主頭はブルースにハマるでもなく、メロディー中心で聴いていたから、ビートルズの解散のほうが心痛のタネだった。

そのビートルズのディープでいて新しい歌詞の世界も、そこはロック少年らしく学業からは激しくドロップアウトしていたから、理解することもなく、熱いビートに耳を澄ましているばかりだった。

bouzu



深夜放送をよく聞いていた。
みのもんた氏が当時やっていた文化放送の「カム・トゥゲザー」ではリクエストはがきを何度も読んでもらい、常連のリクエスターだった。その放送の前に「ナベサダとジャズ」という番組があり、眠気をこらえるのが大変だった。後年ジャズに入れあげるようになるとは知らず、よおこんなもん好んで聴く奴いるもんだ、と理解に苦しんだものだった。

音楽の成績は常時「1」をキープしていた。
ロッケンローラーが巻き毛のバッハとかモーツァルトなど聴くもんじゃないと思っていた。
おたまじゃくしで歌うのではなく、熱いハートでシャウトするもんだと思っていた。
ジョンやポールは神様で、ライバルはロバート・プラントやジョー・コッカーだと思っていた。
頭の中では、巨大な野外スタージでギターをアンプに叩きつけたり、マイクスタンドをふっ飛ばしたりしつつ坊主頭の私が歌っていたのである。

私のビートルズ熱は過熱する一方で、シンコーミュージックから出た写真集を買ったり、雑誌ミュージックライフの文通欄で知り合ったビートルズマニアのはるかに年上の女性と文通したりもした。

ジョン・レノンの初ソロアルバム「ジョンの魂」は何十回も聴いた。もしかしたら何百回かも。
ジョンに近づくために、とにかく髪を伸ばしてヒゲを生やしたかった。
が、ヒゲは一向に生えてくる気配はなく、ニキビばかりが出てきた。
学生服の袖や、ズボンの膝は繊維が磨耗してテカっていた。
ロック的要素は皆無だった。

早く大人になり、家を出て、ロック的生活を送りたかった。

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